カムイの冒険譚

遊びを大事に。自由にワクワクして暮らす。西洋占星術が大好き。18歳の視点で思ったことを書きます。

書く

何かするときに、いつも外からどう見えるか?うまくできてるか?みっともなくないか?前例は?というのをはじめに探してしまう。
そんな自分が本当に嫌だ。
なんで形から入るのか?
(今聞いてるラヴェルマメールロワのパゴダの女王レドロネットが大好き。一瞬躊躇したけど、大をつけた)
喜びを感じることが本質なのに、そんな気がするのに。
なんか、、形から入ると萎える。でもくせなのか知らないが、無意識にそうする方向に進んでしまっている自分を常に発見する。

こうしている間にも、ラヴェルの音楽がわたしを癒してくれる。大好き。本当に好き。これが魂の喜び、、、かな?うーん、何かがピッタリフィットしてない気もするけど、まあいいか。

ブログとして書くのもどうかなーと思う。
なぜかって、人に見られる形で書くのにはいい面と悪い面がある気がして。いや、正しくいうと、あらゆる面が(私に最終的にどう関わるかはわからないけど)存在して、躊躇する。
例えば、評価されること。褒められるのは嬉しい。これはどうなの?という検閲は嫌。
ならコメント機能はないようにすれば?っていうの、いま思いついた。笑
それから、気分で更新できず、なんとな〜く定期的に更新しないと、読者のためにって思ってしまいそう。
またまたいま考えたけど、その読者って、誰?外に執着しないならば外野がどう言おうが関係ないのでは?

外の人のために何かするの、本当にきらい。
何でもかんでも自分のためがいい。
理解しやすいように、出来事を付け加える。
体裁がいいよう、デザインする。
人聞きのいいようなことのみ書く。
いやいや、よく考えたら自分と同じ波動の人としか結局は繋がらないんだよね?
ならば内容とかテイストとか色々考えても関係ないのでは?
『何々のために』っていう道具主義、きらい。
本当はなにかを批判しているようなテイストの文章は嫌いなはずやけど、こうしてそのような文を書いてのもどうよ?
思考はここで、アセンダントの度数が双子座12度の、反抗する少女ジプシーだから、反抗するのはホロスコープ的にも当たり前、ましてや水星太陽コンジャンクションに火星スクエアなんだからいたって自然だ、と主張する。呟くといったほうが近いかな。
そういえば私、P子さんのブログは大好きだ。
批判は嫌なのに。なんでやろう。楽しみにしてる。

ブログ書くならこうやって練習して、形を整えてからね、ってまた思考がのたまう。だからそこだって〜。
人から見られるブログだと、『分かりやすいように』すいませ〜んとか、適当ですが、とかいちいち入れちゃいそうで。